宮本とは?/ ディック
[ 1059] 宮本茂 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E8%8C%82
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幼少時代は絵を描いたり、家の周りの自然を探検することが好きだった。その時代の洞窟や湖などにおける自然体験は、その後の宮本のゲーム制作に大きな影響を与えた。その事から宮本はクリエイターを志す若者に「ゲーム以外の経験がゲーム作りに役に立つ」と言葉を送っている。 1977年に金沢美術工芸大学を卒業。専攻は工業デザインだった。同年、小さい頃から玩具に興味を持っていたため、当時トランプを柱とし色々とやっていた玩具会社の任天堂に興味を持つ。デザイナー枠で任天堂は募集していなかったが、父の友人が当時の任天堂の社長であった山内溥だったこともあり、面接の場を得て工業デザイナーとして入社する。しかし、入社したは良いが工業デザイナーとしての仕事が全く回ってこず、ポスターを描いたりゲームセンターの飾りつけを行ったりしていた。ゲーム筐体のデザインも担当しており、任天堂(レジャーシステム)がスペースインベーダーのコピーゲームである『スペースフィーバー』を作った際、ゲームデザイナーの上村雅之(後にファミコンを作る)が絵を描けなかった為、キャラデザインを担当した。宮本が何らかの形でゲームデザインに関わった、確認される最古のゲームである。 ドンキーコングで初登場したマリオは当初、正式なキャラクター名が付いておらず、工事現場のおじさんという設定であった。このキャラクターをNOAへ送ってみせたところ、実在のNOA社員である「マリオ」氏に似ていたため、愛称として呼ばれ始めたものがいつのまにか正式な名前になった。ドンキーコングでは、ゲーム内容について宮本茂が積極的にアイデアを出し、プログラミング以外をほぼ1人で担当したこのゲームは、アメリカ市場のみならず日本でも大成功を収め、それは反対に基板が全く足りなくなるほどの人気であった。横井軍平もこのゲームを絶賛している。その後ゲーム&ウオッチにも移植され、1000万個近い売上を達成する。 その後、山内の「100人の凡才より1人の天才」という考えから任天堂ゲームの中心的開発者となり、1984年に新設された情報開発部(現・情報開発本部)の開発課長に就任。部門の実務のリーダーになった。現在でも、その部署は任天堂のゲームソフト開発の中核部署である。 2000年6月、取締役に就任してからは経営業務が優先されるため、本来のゲームソフト開発の業務は長年連れ添ってきた部下に任せ、自分は開発現場からある程度離れた立場に退く形になった。それが2002年5月31日に代表取締役専務に昇格してから顕著になり、日本と海外の支社や取引会社を何度も往復したり、2週間に1度の取締役会の仕事に拘束されるようになった。 しかし、代表取締役社長の岩田聡の「宮本は、可能な限り開発の現場にいるべきだ」との方針により、2005年からは情報開発本部長としての社内開発業務にできるだけ専念できる体制に改められた。それが『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』の「ちゃぶ台返し」に繋がる(下記「ちゃぶ台返し」の該当項目を参照のこと)。 宮本は通常、『マリオ』シリーズや『ゼルダ』シリーズ等の自身が生み出したシリーズ作品では「プロデューサー」としてクレジットされている。ただし、近年では任天堂以外で開発された作品もシリーズに含まれており、それに関してはこの限りではない。 ファミコン初期の頃は、姓の「本」の字を読み替えた「ミヤホン」としてクレジットされていた。これは、アメリカで現在より翻訳力が劣っていた時代に誤訳されたため、という説もあるが、同時期には手塚卓志は「テンテン」、近藤浩治は「コンチャン」とクレジットされているため、故意にこれらのニックネームを使っていたものと考えられる。理由として、当時はまだゲームクリエイターという職業が社会的に認知されていなかったため、本名を使うのが憚られたとされる。また、同業他社による社員のヘッドハンティング防止の意味合いもあった。 この「ミヤホン」という名前は、現在でもファンの間で使われたり、まれに本人も使用することがある。しかし、その後のヒット作量産により、ゲームそのものの社会的地位はもちろん、宮本茂の名前も著名になり、1990年にポール・マッカートニーが来日した際には、ポールの息子が宮本の名前を知っていた事から、コンサートに招待され、宮本はサインを贈っている[1]。マイケル・ジャクソンも宮本のゲームのファンであるという。ゲームクリエイターではコナミの小島秀夫が、自身がマリオから受けた影響の大きさから、スタイルが異なる事を明言した上で尚、宮本を「師匠」として尊敬している。 ゲーム脳の報道番組でインタビューが行われた際には、「自分の開発したゲームを使って実験してほしい」と反論を述べていた。その後、雑誌で質問された「最近腹が立った事」事項において、マスコミの報道の偏向性や在り方を回答していた。 宮本のゲームソフト開発における影響は、ゲーム機開発においても見られる。スーパーファミコンにおけるLRボタンや、NINTENDO64におけるアナログスティックのアイディアは宮本が提案したもので、現在では他社のハードウェアのコントローラにもこのアイディアが使用されている。 プリレンダムービーを主体としたゲームが一世を風靡した時代、メディアからのインタビューで「ゲームに物語性を持たせる事で、現在の若者を中心としたユーザーに、映画的ゲームの物語でメッセージを送るというスタンスは取らないのか」と質問されている際、「自分のような、ゲームを作り続けている人間(=クリエイターという職業)がいるという姿勢だけが伝わって、そこから何かを感じ取ってくれるユーザーがいれば、という信念で作っている」と答えている。 宮本自身、子供の時漫画家という職業を知り目指していたが、それとは異なる"モノ作り"の職種に就いている。それ故、多様な職業の一つとして認知されて目標としてくれる人間が増えてくれれば、たとえ最終的にゲームクリエイターにはならずとも、自分が漫画家から受けた影響と同様の結果で天職を見つけてくれるかも知れないとの意からのコメントである。 宮本が目指しているゲーム作りの姿勢として「万人向け」というものがある。これは今ゲーム業界で広義的に認識されている「万人向け=ファミリー向け」とは異なり、文字通りの「万人」を指す。すなわち、初心者、ライトユーザー、コアユーザー、幅広い年齢層や性差も越えて、購入してくれた消費者全てに満足してもらえる、極めて高い顧客満足度を満たすゲームを作りたいという意味である。 無論、ゲームに限らず、様々な娯楽商品、引いては日用品や消耗品に至るまで完全な顧客満足度を得る商品の開発は究極の到達点であり、事実上不可能であると言える。しかし敢えてそこに目標に据える事で、商品開発のレベルを維持しつづけ、また思いも拠らぬ部分から認められる新たな商品価値が発生するかも知れない事から、宮本は「万人向けを目指している」と答えている。 プレイヤー=主役キャラクターとし、世界観等をプレイヤーの想像力と印象を重要視する制作姿勢を打ち出している為、ゲーム中に登場するキャラクターにボイスを採用する事には余り重きを置いていない方策を取っている。これはイメージの固定と一元化を避ける理由からである。前述の理由から特にプレイヤーキャラには喋らせない方策を取る場合が多い[2](プレイヤーキャラを喋らせない様式は、他社作品でも主人公=プレイヤーのRPGなどで頻繁に採用される)。しかし、ゲームにおいてボイスが採用されることが標準化され、テキストベースのゲームにおいてジャンルを問わず、主要キャラのフルボイスばかりかエキストラキャラにも一部ボイスが採用されているソフトも登場する現在では、この方針に関しては一部のコアユーザーを中心に賛否両論ある(任天堂の項目も参照)。 マイクロソフトがゲーム業界に参入する際、任天堂を数兆円で丸々買収しようとした話は有名であるが[3]、その任天堂のゲームソフト開発の中心人物である宮本茂を「現在の給料の10倍で」引き抜こうとした事もあった。宮本の地位から言えば軽く億を超える提示に、宮本は「(任天堂には)仲間がいるから」と言って断ったと発言している。 1本のゲームソフト開発に注力する立場から、任天堂関連ソフトを全体的に監修する立場が強くなった現在、駄目出しの結果「面白くない」と強権を発動してほぼ白紙に戻す「ちゃぶ台返し」(本人命名)を行うことが多々あるそうだ。それは、個別に仕様を変更した結果、全体が変わっていたものから、初めから全体的に変更するものまである。このことから情報開発本部や関連取引会社からは「宮本チェック」として大いに恐れられているという。以下、判明しているゲームを書き出す。 1991年末当時、『ティンクル・ポポ』というタイトルで株式会社HAL研究所からの1992年1月下旬の発売が既に決定し、2万6千本もの受注を受けていたのにも関わらず、宮本の「ちょっといじるだけで物凄く面白くなる」という発言を受けて桜井政博ら開発者達が一旦発売を中止にする。キャラクターデザイン面などを再調整した後、任天堂が発売元となり、再度受注を取り直して発売。最終的には日本国内で約172万本、世界累計500万本以上を売り上げ、「カービィ」という新たな任天堂キャラクターの確立に至る。 アメリカのコンピュータゲーム開発会社、レトロスタジオの社員曰く、「宮本茂氏の来訪は、銀河皇帝のデススター訪問並みの恐怖」(この言葉の元ネタは『スター・ウォーズ』のシーン)とのことで、宮本は日本だろうがアメリカだろうがお構いなしに「ちゃぶ台返し」を行っていると思われる。ちなみにゲームがFPSスタイルになったのも宮本の提案によるもので、当初はマリオ64のような三人称視点の探索ゲームだったという。この際それまでにできていた部分がほとんど全て作り直しになったらしく、その時の記憶が蘇ったものと思われる。 このゲームにはナビゲーターの声を頼りに、フィールドの中を駆け回って指示通りに「海賊のメダル」を集め回る『ナビトラッカー』というゲームモードがある。だが、このゲームモード、集めるものは当初スタンプだった。開発の終盤も終盤、宮本の「そこを変えると、ゲームのイメージがガラッと変わるから」との進言で、それまでのスタンプラリーから、世界観に適した「海賊のメダル」を集めるという内容に全面的に変更されることが決まった。これが2004年1月初旬のことである。ちなみに、本作の発売日は2004年3月18日である。約2ヶ月の間にシナリオ、セリフ、ナビゲーターの音声録音、ゲームデザイン、グラフィックス、演出等が作り直されることになった[5]。 時は2005年春、試作開始から数えて約2年に渡って作り込んだものをうまくまとめ切ることができず、開発が難航していた『トワイライトプリンセス』開発チーム。取締役としての業務から解き放たれた(上記「人物」の項目を参照のこと)宮本茂が開発チームに入り、岩田聡社長直々の提案もあり、2005年末の発売予定を2006年末まで1年間延期する決断を下す。その上で、まとまらずに迷走していた要素を1つ1つ丁寧にしっかりまとめ上げるよう指示を出しては納得できないスタッフに説明、納得させた上で再修正したり、不安な要素を払拭する地道な工程や、ゲームの調整・微調整、ニンテンドーゲームキューブ専用からWiiにも対応するソフトとしての開発統括業務を1年以上に渡って取り仕切る。宮本曰く、「茶碗を並べ替えただけ」。開発スタッフ曰く、「オセロみたいな感じ」、「いつの間にか真っ黒になってる」という、今までにないパターンの「ちゃぶ台返し」だったとのこと。 宮本がスタッフを納得させる手法はスタッフ曰く、「相手を動けないようにしてから避けようのない急所を突く」。スタッフが納得できない場合、逆にどうしたらできるかを問い詰めた上で、宮本が反撃、スタッフを的確に突き上げ改心させるというものらしい。 業務の指示の手段として携帯電話のメールが多用されたという点がそれまでになかった点。宮本からスタッフへの変更指示は通称「とほほメール」と呼ばれる。 ムービーの内容は、マリオとルイージに扮した人が街を疾走し、通行人にちょっかいをかけるが、突如現れた宮本茂に睨まれ決まりが悪そうに退散、宮本氏の後ろに居たリンクも驚いて引き帰す、と言うものであった。 テレビアニメ『ポケットモンスター』の主人公サトシのライバルであるシゲルは、宮本の名前に由来している(ちなみにサトシの名前の由来は、ゲームソフト『ポケットモンスター』の生みの親である田尻智)。 2006年3月13日 - フランス政府から、レジオン・ドヌール勲章(芸術文芸勲章)「シュバリエ章」を受賞したことが発表された。これはゲーム産業界としては初めての快挙。インタビューでは「芸術の中心のような国からも評価されて光栄だ。1人でやった仕事ではないが、ゲーム界全体にとって光栄なことなのでお受けすることにした」と答えている。 2007年1月31日 - 社団法人デジタルメディア協会 (AMD) 主催の「デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー'06/第12回AMDアワード」で、デジタルコンテンツ業界の発展に貢献したとして功労賞を受賞した。スケジュールの都合がつかなかったため当日の授賞式は欠席したが、ビデオメッセージでコメントし「“功労賞”をいただく歳になってしまったが、これからもまだまだ現役でやっていきたい」と意欲を語った。 |
[ 1060] 宮本恒靖 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%81%92%E9%9D%96
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危機察知能力に優れ、判断の早さとカバーリングに秀でる。特にフィードの正確性やそれを生かしたゲームメイクには定評がある。3バックのセントラルでのプレー経験が長く、ライン統率力に優れる。若い頃からキャプテンシーを認められガンバ大阪ユース初代キャプテンを3年務め、またトップ昇格後の2000年、2004年はチームキャプテンも務める。 日本代表でも年代別代表からA代表に至るまで、全カテゴリでキャプテンを務めた。 本格的にサッカーを始めたのは10歳。ポジションはフォワードだった。高校時代はガンバ大阪ユースに所属。大阪府立生野高等学校卒業後、ガンバ大阪入団と同時に指定校推薦枠で同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、プロスポーツと学業の両立を果たした。 ガンバ大阪では入団当時からスイーパーとして活躍、アントネッティ監督にはボランチで起用されたこともあった。2001年にイングランドのウェストハム・ユナイテッドに移籍を試みたが、労働ビザが発給されずに断念した。ガンバ大阪が初のリーグ優勝を果たした2005年は、シーズン中にイタリアのトレヴィーゾからのオファーがあったが優勝争いの最中であったため断っていた。 2000年6月18日のキリンチャレンジカップ2000・ボリビア戦で日本代表初出場。シドニー五輪を経て、2001年末からは、トルシエJAPANにおいて日本代表キャプテンを務めていた森岡隆三の離脱時に、替わってキャプテンを任された。2002年日韓W杯では、開催直前の大学生との練習試合で怪我を負ってしまう。競り合った際に相手の肘が顔に入り、鼻骨骨折した。顔面を保護する為に医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付ける事になり、自らの手で黒く染めて出場した。そのプレーする姿を見たマスコミからは、バットマンと渾名された[3](因みに、命名の由来であるこの型のマスクを付けていたのは、バットマンではなくその相方であるロビン)。 トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、1、2戦はフル出場したが、第3戦目のブラジル戦はカードの累積で出場出来なかった。 大阪教育大学付属小学校を受験、筆記・面接試験ともに合格するものの抽選により不合格となった。中学校では生徒会長を務め、あだなは「校長先生」であった。 2002年日韓W杯で着用したフェイスガードは兵庫医大病院で作られたもの。元々白かったのだが、相手に威圧感を与えるため本人が黒く塗ったものである。ちなみに最初はマジックで塗った為、試合後はフェイスガードを着けていた部分が、真っ黒になっていたらしい。この大会が終了した後もフェイスガードの反響は大きく、Jリーグ再開後の最初のホームゲームではサポーターにフェイスガードを模したお面がプレゼントされた。 PK戦の途中で審判への申し入れによってサイド位置が変わることはまず無いが、2004年アジアカップ準々決勝のヨルダン戦では審判に「ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしで史上初めてPKの位置変更を申し入れ、これを認めさせた。ちなみに宮本はこれについて「中村俊輔と三都主アレサンドロがPKを外していたため、嫌なムードを変えたかったから」と話している。 語学の習得に長けており、中学からの公立教育のみで英語を、大学の第二外国語でフランス語をマスターした。ガンバ大阪でのチームメイト、フェルナンジーニョとは共に日本語とポルトガル語を教え合った。ザルツブルク移籍後は週2回のドイツ語のレッスンを受け、現地メディアの取材は本人がドイツ語で応じている。 |